闘病記&生い立ち

第[因子欠乏症(血友病A)


この病気は、血液の病気です。人は出血等を起こすと血小板の
働きで出血を抑えるのですが、その血小板の働きを促す
第8因子という物質を自分で作る事が出来ない病気です。
発症率は、新生児15万人に1人くらいと言われております。
怪我などの心配はもちろんですが、成長と共に関節内に内出血を
起こしてしまうのです。その痛みは、モルヒネを使うほどの痛み
麻酔ナシでメスを入れても判らないくらいのものでした・・・
今では、自己注射で予防が出来るようになり、昔のような症状で
悩む事はなくなりましたが、関節の障害は残ってしまい、
毎日のように、関節の痛みは続いています。しかし、昔に比べれば
今は本当に楽になれたと、自分に言い聞かせながら頑張っております

活動性C型慢性肝炎

これは、体の中に肝臓を壊すウイルスが入っていて、肝臓を壊して行く
という病気です。血友病治療の為には、血液製剤を使わざるを得ません
必然的に、肝炎ウイルスの危険と背中合わせとなります。
GOT・GPT・?GTPなd、正常な人の肝臓の値の、数倍から
数十倍の高い数値を示していますが、仲間は血液製剤を使って、
エイズに感染してしまいました。それに比べれば、節制してれば
まだまだ大丈夫。上手く付き合っていきたいと思ってます。

鞭打ち

これは、事故によるものですが、今までに3回ほど追突されました・・・
仕事柄良くある事ですが、今では鞭打ちの症状により、毎日頭痛の日々・・
体自体が、強い薬に対しての耐性がある為か、痛み止めもロクに効かない
今までは、季節の変わり目には塞ぎこんでばかりでした。
最近になって、人と話しをして笑ったりする事によって、頭痛が少し楽に
なる事に気が付きました。病は気からと言います。うちは全てが、それで
解決するとは言いませんが、気持ちって大事なんだと最近気付く事が出来ました
これからも、痛み止めや接骨院への通院が続くと思いますが、
頑張っていきたいと思います。

関節障害

血友病は基本的に出血を繰り消すのですが、殆どが関節内出血です。
実際には、健康な人でも出血は起こしているのですが、自分で出血を止められるため
症状が出ないだけで、血友病患者はそれを食い止められないのです。
もちろん血友病患者の中にも、軽症と重症患者がいるので、全てあってるとは言えませんが
基本的には、出血を止めにくいと言う事に変わりはありません。私は、重症患者です。。
とにかく出血を繰り返す事によって、軟骨が削れて薄くなります。常時痛みが出てしまいます
次第に関節の動きも悪くなります。レントゲン写真で見ると、関節と関節がくっついて
いる状態。痛まない訳ありませんよね。これが身体中の関節に残ってます。正直言って、
毎日痛む場所が違ってます。痛まない日はありません。これに対して、治療法としては、
人工関節を取り入れる方法です。しかし、うちは手術をしたくないので現状で我慢してます

高血圧症
仕事の不規則さや体質。今まで使用してきた薬の副作用が原因。
極度のストレスより、血圧が210ー140まで上がってしまい
それ以来、薬を飲みながら、平常値へ戻すよう頑張ってます


生い立ち

うちは福島県の山奥が田舎です。田舎では、こんな病気の子供はキチガイ扱い。
生まれた時から、仲間ハズレの人生。。名医が東京と聞き、お袋と二人で上京。
治療をしながら、田舎と東京の二つの生活。お袋は治療費の為に昼夜仕事漬け。
田舎に帰ることもしばしばだったんです。しかし田舎は地獄だった。。。

本家では、食事を一緒にさせてもらえず。うちだけ、外の縁側で食事。しかも、
みんなよりも酷い食べ物が並んで。。寝るのも、病気が移ると牛小屋で寝かされる
という日々が続きました。爺ちゃんが出稼ぎから帰って来て、うちを見付けてくれ
なければ、肺炎で死んでたくらい。。そんなうちを見かねて、爺ちゃんが東京に
出てきてお袋と親父4人の生活が始まる。けど、東京も冷たかった。幼稚園ですら
どこも受け付けない。そして、小学校でもPTAが問題児として養護学校へ行けと
大騒ぎ。嫌がらせやいたずら電話が続く。酷い生活だった・・・治療費が高くて
テレビすら無かった。毎日が悔しくて、泣きつづけた。。髪の毛は白髪だらけ、
ノイロ−ゼになり、自殺も繰り返す・・・小学校を卒業の頃には、自己注射が
出来るようになり、普通の生活が送れるようになると、自分自身に変化が・・

中学校になると、悪い道へとまっしぐら・・・何でもやりました。。
死んでも良いと何時も思ってるから、喧嘩は半端じゃなかった。突っ走るしか
その時のうちには出来なかった。。お袋は、毎日のように学校に呼び出し。。
警察からも呼び出し。。うちが14才の時に、遂に心臓を悪くして倒れてしまう。
死の淵を彷徨いながら、高校だけは行ってくれと言われ、やっと目覚める。
それまでは、テストなんか丸めて捨ててたもんだから、0からのスタ−ト。
けど、高校受験の頃には偏差値も65くらいにはなってた。ただ、制服や態度は
悪かったから、通知表の成績は悪かったけど、無事都立高校合格。
ここから、新しい人生が始まると思ってた・・・

これまでの15年間、体育はもちろん、外で友達とかけっこしたり、
修学旅行や遠足も一緒に行く事も出来なかった。普通に友達と遊んだり
普通に恋をしたり・・・普通にしたかった事が出来なかった・・・
だからこそ、これからは新しい自分を掴めると思ってました。

しかし、そうは世の中甘くなかった。その頃のテレビやマスコミは、恐怖の病気
エイズが日本上陸と大騒ぎでした。うちの病気(血友病)は、輸入血液製剤を
使っていた為、約半数の血友病患者が、エイズに感染してしまった。うちも、
病院でエイズ検査を受けた。結果を待つ気分は、まるで死刑宣告を待つ気分だった
あの時の恐怖感は、今も拭う事が出来ない・・・結果は、感染してなかった、
けれど、高校入学の始めての全校朝礼で、校長が1年に血友病の生徒がいるから
みんな気を付けるように!と言われた・・・しかも名だしでね・・・
そこで喧嘩して、指導室での授業が始まる。新入生はすぐに大島に合宿があった
だけど、うちは行けなかった・・・いや、行かして貰えなかった。そんな生活の
中で、友達を作る事も、同級生と話す事も無かった。卒業まで・・・
みんな腫れ物に触るような感じ。ダンスの授業なんて、手を触れるでしょ?
嫌がられるんだよね。だから、握手なんてした事がない。。

そんなうちを癒してくれたのは、音楽だった。一日中ギタ−を弾いて、
16才の頃には、5〜10才も上の人達とバンドを組んでた。原宿のブティックで
バイトしながら、音楽を続けて学校に通う。毎日が忙しかったけれど、充実して
いたのかもしれない。ただ、人を信じるという事は、まるで無かった。とにかく
孤独をこよなく愛していたかもしれないなぁ。どうせ誰も判っちゃくれないと
どこかで人生を捨ててた所があったかもしれない。
けれど、ステ−ジは何度立っても緊張が凄かったなぁ。
小さい頃からの抑圧からか、気だけは小さくて、LIVEの度に吐いたりしていたなぁ。
今思うと、凄く貴重な体験。音楽があったから、生きてこれたんだろうなぁ。

この年になるまで、2度も自殺未遂してるし・・・音楽が無ければ、
また暗闇に落ちていたんだろう。。ただ孤独は何時も自分を襲う。。
けれど、不安を悟られたくないから、無理に強がってしまう。
強がって格好つけてばかりの生き方をしてきても、
結局は自分を偽ってるだけ。翼をもがれて飛べない鳥のよう・・
自分以外は、みんな幸せを求めて飛び立って行くのに・・
何時までも現実という池のほとりで、立ち止まったまま

駄目ですよね。。みんなが羨ましくて近くにいけないんだから。
他に飛べない鳥を探そうとしても、寄り添ってくれる鳥なんかいないし。
華やかな世界にいても、何時の間にか自分を追い込んでしまってたりして。
けれど、何かに夢中になってないと駄目になりそうで、
とにかく毎日が必死にもがいてました。

そんなうちも、20才で結婚する事となる。そして、21才で娘が誕生。
その頃も音楽は続けていた。貧乏で、食う物もなかったし。練習&LIVEの
繰り返しで、一ヶ月にのんびり家にいるのは、2〜3日くらいかな。
その頃から、タクシ−の仕事を始めるようになる。就職は、何十件回っても、
どこも不採用。やっぱ病気があるから。。所詮つまはじき。。
けれど現実は待ってくれない。何でもやりました・・お金になるなら・・
今の会社に拾って貰えなきゃ、一体どうなっていたんだろう。。。

しかし、その頃には静かに肝臓が壊れていた。。気付いた時には、急性肝炎。
劇症肝炎の一歩手前。危ないという事で、家族や親戚も集まったんですが、
奇跡的に回復。この時点で、奇跡を起こしたのが3度目。心肺停止は2度経験
それでも死なないで生きてる・・・楽に死なせてなんかくれない・・・

今までは、何で死ななかったんだろう。死んじゃえば楽だっただろうに。。
毎日病気の恐怖と闘い、何時訪れるか判らない死を考えてばかり・・・
そんな人生をどれだけ過ごしてきたのだろう。。

けれど、今年30才になって、自分自身が強くなった気がする。
今では、過去を笑って話が出来るようになった。
もちろん、一時も忘れた事なんかないですよ。苦しかった日々の事を。
ただ、上手く整理が付いただけ。生まれてから、何千・・何万回と、
味わった屈辱。その苦しみを、少しずつ整理してきたんだと思う。
ふと気付くと、自分の周りには味方がいたんですよね。
こんなうちに、笑顔で答えてくれる味方が。凄い幸せですよね。
それに気付いた事によって、何かがフッキレたのかもしれない。

気付くのが遅いですよね。物凄い回り道をしてました。
けど、弱い自分を、わざと暗闇の中に追いやる事で、
どうせ誰も判っちゃくれない。そんな人生なんだから、どうなっても良いや
何時の間にか、暗闇に自分の居場所を作ってたんですよね。
これじゃいけないと判ってても、そんな時間の流れに慣れてしまって
居心地が良かった所もあったのかもしれない。情けないことに。。
けど、そんな捨て駒な気持ちの中にも、僅かだけど、判って欲しい。
本当は、うちもみんなと一緒に飛びたい。飛べない鳥は嫌だと思ってるんだよね。

小さい頃、歩く事もままならなかった自分が、学校で将来の夢みたいな作文を
書いた時、自分の目に映った人達を大切にしたい。身体が弱い自分だけど、
苦しんでる人、悲しんでる人が居たら、守っていきたいと書いたんだよね。
それを教室で読んだ時、クラスメ−トは誰も聞かなかったし、笑ったよ。。
あの時の屈辱感は、今でもはっきりと覚えてる。そこから皮肉れたのも覚えてる。

けれど、やっぱその時の気持ちは捨ててなかったみたい。
それに気付いたから、今の自分は本当に強くなれたと思う。
こんな弱い自分でも、必要としてくれる人がいる。

死は恐ろしくないと言ったら、ウソになってしまう。
けれど、今は死んで楽になれるとは、どうしても思えない。
ましてや、自分から命を投げ捨てようとも思えない。
この30年の生き地獄のような中で、生と死、善と悪、必死に考えてた。
そして気付いたのは、捨てる事の出来ない夢や希望・・・
1人でも多くの笑顔に出逢いたかった。自分に気付いて欲しかった。
そして、それを感じた時、大事に守りたかった。大切にしたかった。
今まで失ったものも沢山あった。身も心も疲れ果ててしまってた。
けど今は、心を信として生きていこうと思えるようになれた。
捨てる事の出来なかった思いを、忘れないと心に誓って
これからも、沢山の闘いがあると思うけれど、こお思いを胸に
自分の人生を歩んで行こうと思う。
これが、散々悩んで出した答えでもあり、自分への約束だから、
絶対に消えないと、自分に約束して、夢や楽しみを持って少しでも前に歩きたい。
心を信として感じるものを大事にして、もう迷わずに生きていきたい。
今は、それがうちの全てなんですから。。。

笑いたい人は笑えば良いと思ってる。今までだって、判らない人は
何を言っても判ってくれなかったから。。
けれど、そんな身勝手な人間に振り回される人生は送りたくない。

そう思えるようになれたから、もう頑張れる。
時には迷う時もある思うけれど、時間がかかっても立ち上がれる。
だって、30年という莫大な時間を悩んできたのだから。

病気との闘いは、一生続く。それは受け入れざるを得ない。
血液製剤が無ければ、生きていく事が出来ないのは、逃げようもない現実。
けれど、自分の生き方を見出したから、もう迷いたくないから。
これからは、新しいAKIRAの人生を作っていきたい。
そして、この目に映るものを大切に守っていきたい。
もう負け犬だった頃に、後戻りしたくないから。
絶対に生きて生き抜いて、明日を信じて頑張ります。

今は、家族や友人に恵まれ、とても幸せな生活を送る事っが出来てます
幼い頃の自分には、想像もつきませんでしたから・・・
雨の日の後には、晴れの日が来るように、何時かそんな日が来る事を信じて
その為にも、時間を大切にしなくてはいけない
当たり前の事を当たり前に出来る幸せ・・・
そんな小さな幸せに気付く事が出来たならば、
きっと生き方も変わって来ると思います

こんな不束な私でも、そう思えるようになれたんですから。
悩まれてる人も、苦しんでおられる人も、頑張って欲しいと願ってます